2010-05-24

朧涼

眠りと情愛の立ち替わりに遠く谺を聞く
木々間から
宵の闇の向こうから
滲み出てくる液体のような音を受肉する
例えるならば
稚児が産婆を伴って歩きまわる午後
それは多分ある種の平衡状態と言える
また吹きすさぶ黄砂とともに
猛禽の曲がった嘴が目掛ける鉛の振り子の像
その振り幅と雲の動きに関心が移る
しかし一方開いた半身は貝紐に強く巻きしだかれながら
磯に差す曙光によって攪乱された
ストップモーション
槽は沖に在る
翳った陰画が持ち去られた跡
鉛の球面に
再び景色が喚び込まれ
そこに他人との最初の食卓が設けられる

2010-04-28

芳香

水辺に咲く花の中の小さな顔や眼差しは
ひねもす見詰めている
風がすり抜けてゆく視線の先を
一輪とも大輪ともつかぬその花の前で
岩肌のざらついた嘗ての灼熱の名残が
一斉に海を目指した軌跡として貫通する
傾斜を遡行する
一艘の舟
そのとき確かに景色は移ろいだ
垣間みる
膝折り列なる懐かしい女系の一族
地に在って空を臨み剣の峰にその身を窶す
初めに涙あり
次に笑いや叫びがあり
叫ぶものすべてのむねぬちを
そのふるえるいのちのひとふしをつらぬく誉れ
再び雁の群れが還る月の夜に
南より来た花婿を迎えに出野する
いよいよ月は夜空に冴えわたり
やわらかな風に娘たちの豊かな黒髪はそよぐ
花の中の小さな顔は今夜露にかがやき
還らぬ時間を押し戻そうとして芳香する

2010-01-26

宴謡

水の郷 凪がれるみづのせせらぎかろく 月はあおく水面に揺れる 叢の蔭間に蛍灯またたき 蛇淫を宿したふくよかな操は感色の果てで透き通る 一本の髪一枚の爪にいたり 精夢に浸り溺れている 内蔵はえんえん重みを増す一個の果肉をうけとめる 眠りの淵でふたたび結ばれる 引き起こされる痙攣は感覚をともなわぬ 濡れ契り沈みの底でたゆたうみずくさ かわいた歯に張りついたくちびるが誘う夜 無数の星が落ちるのを見開いた眼が見つめている

2009-11-16

姉女

僅かに開いた歯が語る淋しみ 河沙で舞う童の歌声に 秘して語らぬその口は na-mai-dans-na-mai-dans-na-mai-dans-mai-dan 葡萄酒の染みが残る手紙に暇を請う 焼けた香は匂い立ち 青雲涼やかに景勝をなし この軒の彼方の鎮む背な見ておもう 黙して問わめ菜摘のこととは

2009-10-21

初下

午まではまだ暫くあれど 日除けの下は汗を含んで重く 照らす青葉の吾の蔭ぬち み遙すこの豊饒の草木とひとしく 生えかつ生きるもののいきれに包まれながら 肥土ふかく素手をさし入れつ 涙す涙ししとはなしに

2009-08-17

河原

蝉時雨の余韻の裡で なお樹々はその成熟した肌をいっそう濡らす 熱した石と湿った土の匂いに包まれ たしかな幅のある幹は唇で撫でると微かに粘着する 午下りの青月が向岸に浮ぶしじま 呼気や鼓動は河岸の一隅で急速に冷まされて 硬く隆起した樹皮のあいだから 少しずつ柔かな部分があらわになる 花嫁は膝を抱え 濡れた臀部の下の火照った石の硬さに俯く 枝葉はたおやかな張りを保ち 根先の繊毛は深く冷たい粘土に絡みつく 花嫁の足の間で割れた殻の田螺が干涸び その黒く酸化した螺旋の尖端が指す空には雲ひとつなく 代りに啄木鳥の瞳がまだ翅の青い一匹の蜻蛉を捉えた 花嫁は覚悟し 窓と石の庭の木々間に碑銘を刻む 信女の名 信士の名 魂魄が皆自ら向う場所 ずっしりとした懐かしい体がやって来る 花嫁は涙のように流れ注がれる樹液の身に止め処なく しかし風の音には未だ見えず 国に枕し木の実をひとつ 齧る

2009-07-13

鬼灯

村雲に紛れた月の下 蟄虫どもの聲もとうに聞かない 翻した翅の下に剥き出しの腹がまるで蟋蟀(こおろぎ)の骨のように嵩張り 早秋の野辺地には紅潮した鬼灯(ほおずき)の実が提げられた 遠くの縁の奥の室より鈴聲(れいせい)が響く ガッカは太く艶やかな黒髪を頭の上に大きく束ね いつものように膝を立てて神酒を煽る 童らはめいめいに野焼きの番に熱中している 頰を火照らせ いくつもの瞳に篝(かがり)が瞬く その眼を盗んで 若い農婦たちが徐に腰を沈めてゆく 橙色に熟した実を覆う網袋の外で ガッカの仔を迎え入れるため 農婦たちは妾(わらわ)の出自 酔うたガッカは贈る名として 俄に相応しい季語が浮かべられない 果たして紅天の六角は焼失し 烟煙霧散 残り火がちらちらとその舌を揺らすのみ 童らは皆その赤い小さな火を見詰めたまま 焦った農婦の一人が奇妙な喘ぎを発し 陰画のような霹天を透かすようにして 朧月が明るさを増しはじめる 忽ち鬼灯の網袋は八切れ 堪えきれずその実は内側からぽたと弾けた ガッカは風の流れを確かに目で追うような仕草で 夫の遺影の方へ振り返った