2009-11-16

姉女

僅かに開いた歯が語る淋しみ 河沙で舞う童の歌声に 秘して語らぬその口は na-mai-dans-na-mai-dans-na-mai-dans-mai-dan 葡萄酒の染みが残る手紙に暇を請う 焼けた香は匂い立ち 青雲涼やかに景勝をなし この軒の彼方の鎮む背な見ておもう 黙して問わめ菜摘のこととは

2009-10-21

初下

午まではまだ暫くあれど 日除けの下は汗を含んで重く 照らす青葉の吾の蔭ぬち み遙すこの豊饒の草木とひとしく 生えかつ生きるもののいきれに包まれながら 肥土ふかく素手をさし入れつ 涙す涙ししとはなしに

2009-08-17

河原

蝉時雨の余韻の裡で なお樹々はその成熟した肌をいっそう濡らす 熱した石と湿った土の匂いに包まれ たしかな幅のある幹は唇で撫でると微かに粘着する 午下りの青月が向岸に浮ぶしじま 呼気や鼓動は河岸の一隅で急速に冷まされて 硬く隆起した樹皮のあいだから 少しずつ柔かな部分があらわになる 花嫁は膝を抱え 濡れた臀部の下の火照った石の硬さに俯く 枝葉はたおやかな張りを保ち 根先の繊毛は深く冷たい粘土に絡みつく 花嫁の足の間で割れた殻の田螺が干涸び その黒く酸化した螺旋の尖端が指す空には雲ひとつなく 代りに啄木鳥の瞳がまだ翅の青い一匹の蜻蛉を捉えた 花嫁は覚悟し 窓と石の庭の木々間に碑銘を刻む 信女の名 信士の名 魂魄が皆自ら向う場所 ずっしりとした懐かしい体がやって来る 花嫁は涙のように流れ注がれる樹液の身に止め処なく しかし風の音には未だ見えず 国に枕し木の実をひとつ 齧る

2009-07-13

鬼灯

村雲に紛れた月の下 蟄虫どもの聲もとうに聞かない 翻した翅の下に剥き出しの腹がまるで蟋蟀(こおろぎ)の骨のように嵩張り 早秋の野辺地には紅潮した鬼灯(ほおずき)の実が提げられた 遠くの縁の奥の室より鈴聲(れいせい)が響く ガッカは太く艶やかな黒髪を頭の上に大きく束ね いつものように膝を立てて神酒を煽る 童らはめいめいに野焼きの番に熱中している 頰を火照らせ いくつもの瞳に篝(かがり)が瞬く その眼を盗んで 若い農婦たちが徐に腰を沈めてゆく 橙色に熟した実を覆う網袋の外で ガッカの仔を迎え入れるため 農婦たちは妾(わらわ)の出自 酔うたガッカは贈る名として 俄に相応しい季語が浮かべられない 果たして紅天の六角は焼失し 烟煙霧散 残り火がちらちらとその舌を揺らすのみ 童らは皆その赤い小さな火を見詰めたまま 焦った農婦の一人が奇妙な喘ぎを発し 陰画のような霹天を透かすようにして 朧月が明るさを増しはじめる 忽ち鬼灯の網袋は八切れ 堪えきれずその実は内側からぽたと弾けた ガッカは風の流れを確かに目で追うような仕草で 夫の遺影の方へ振り返った

2009-05-31

燕土

我が廟門を過ぎるとき 肚腑に熾る鈍い痛みの塊は 湿地に残された乾土の島を喚起させる 草も無く 生き物もなく 地熱の立ち上る穢土が広がる 空は低く 湿った雲は厚く垂れ 閉塞された内面の感覚によって充足する 湿泥に棲息する両生の類は愉楽に歪む事なく空を仰ぎ取囲んでいる 頭上から降る燕戸の屑 潮騒を聞きながら 成る程此所は確かに海に近い そうしてまた廟柱の青錆の奥の朱を指の肚の先の肌で愛撫しようとしている

2009-05-22

青春

心がぽつねんとして独り寂しく溜っている 相変わらず思考や感覚は私のからだに留まり 二度とは触れ得ぬ想い出の頁を手繰るのや 次々に過ぎ去ってゆく文字の手応えを辿ることで忙しい 少し離れた処で独り寂しく溜っているあの心は 人と人との間に生まれてよりずっと 互いに触れあい交らうことの悦びを頑なに拒みつづけた手や足や心臓を繁殖させもしながら 脈を打つ膜越しの緊張によって 数秒間隔の刺戟で放出される軌跡を色濃くイメージさす それは男であること女として育ったこと みな哀しいさだめと青い樹木の森に遊んだ日々の標であり 野辺は蒲公英と少女たちの鮮やかに映える風景を背にして 季節のために相応しい名を与えることができない男の姿を立ち上がらせた 険しく切り立った峯 その向うに靡く空は ようやく青春の色を帯びて匂いたつ

2009-04-13

再会

漸く広い処に出た 果ての峰にはまだ冠雪が残り 瀬は雲を映しながら淡々と流れている 風もなく音もなく 空に在った筈の鳥たちの影の跡を追うようにして迷い込んで来た人 あれは娘たちと丁度同じ顔をした私の妻だ つまり私は既に夫という父 父である夫であり あの頃の裾野に向かってよく風が叢を薙ぎ 燃えるような落陽が忽ち野を枯らし 季節は色彩と虚空を巡りながら熾烈を極めていたはずだネエ オン トオ トン トン カタリ 運命も命運も行違ったまま経巡るものだよ 私も追っているうちに迷い込んでしまった者の一人 そうして熱い息を交わした後は 小水すれば決まって身震いし 雪解けの事などを思っては荘厳な気持ちになるんだ

2009-03-05

訪問

無論、古代からの時間です流れているんだが、真実、人間存在その善良なる心なら怜悧にして檄をともなう事実おとづれるものとの、音と音とのおとなう意をともなうもの見得ないものの囁きを、いよいよ口を開けた剥き出しの歯、歯冠、歯茎、支えている肉その桃色は既に白骨化した厚い皮膚をまとうことの身重さを一切説明せず、夏の宵の異様な眠気に苛まれ、仰いだ先に垂れさがる我が曾祖母のおそろしき白髪その懐かしさの裡に灯つたり滅したりする蛍の尻の盛んに勢い飛ぶ闇夜の湿り気がひそんでいた、きっと待つているんだよ深い朝靄のただ中にぽつと生まれた我々の営むこのいのちは、口承の口伝の口外に至って左右の手と手でみずから取り立てて言語し、今ではずったり存在している。

2009-02-11

風邪

たとえば拵えたての根菜料理を味するときの苦汁が、細菌やウイルスだのを顕微するための明暗や濃淡と同調しながら視るもの触れ得ぬものとしての根という存在をあらためて浮き彫りにしようとするときでさえも、わたしたちの末梢は傷み腫れ爛れながらも柔らかく赤らんだ生長を求め続け、時に声を発し、それを歌と呼ぶような呼吸をいとなみ続けて居もしてきたのだろう。それはまるで昼夜を徹して道化や奇術すなわち驚愕と感謝を以て為される欺術というものが今日その本来の力を喪いかけてふうじゃ、ふうじゃと野邊にあらわれ溢れ留まり常世の逢瀬を念って成仏できない女の幽霊たちが厳しく咳き込んでいるようなものに思われもし冬の寒さは風邪がからだからいっこうに出て往こうとしない、きっとおれなんぞはとうに取り憑かれちまっていたにちがいない。そう言えばいつか見た峯に立つ枯れた標木のうえにこそ白くて寂しい冬は在ったな、と思いつつ、いつもより早めの帰宅をした。

2009-02-02

黙祷

ぐっと両のまなぐをおさえる。いまではすっかり冷えて固まってしまった巌っ原の隆起した肌が指す拡がりはなんだか透明な僕らの潤んだ網膜の内側でゆったりと棚引く茜雲をぼんやりとらえて、やぁ山のあんつぁ今夜もきっとしばれるねぇ、夜になるとまたきぃんと鳴って何億も昔の星たちの残光がうす蒼くなったりするのをやっぱりただ黙ってじっとして、そのとおり黒くてなだらかな影のいっそう大きな背中に向かうと誇らしさがこみ上げる、口をきっと結び、息を潜めてまなぐを空ける、すると天球がじんわりと膨らんで夜気がとくとくと溢れてゆく。そうらみろ、そもそも故郷とは古里から離れた人間だけに許された言葉だ、おれはもうとっくにここには居ない。いまではすっかり冷えて固まって巌っ原が拡がり、もはや微塵も動かぬ山と流れてゆく時間とが存在するばかりだ。その男は予てより望んだ自然との合一を果たし、私は両のまなぐからおさえていた手をゆっくりと外した。夜空では星が尾を牽いてながれていた。

2009-01-20

南へ

喋喋喃喃と、この人に迫りたいだの越え出てゆくべきだのましてやこの人でなくてはならないなどと言うのは、あなたがたわたくしたちのあいだで延々と繰り返されてゆくのでしょうきっと、これからも、これまでよりも強く、強く肩を捩り擦れあうような仕草とともに、立ちこめるように仄かに青白く揺れる四角いあかりのもとで、いま仮に、確かに見つめあうのならば濡れた瞳と瞳に映る己の姿とその像が見る己の姿、逸らず、静かにかさねあわせて逃がさぬように、中心に据えた夢、絞り上げるフォルム、閃き雲は千切れ彼方へそして、星の瞬きがやってくる。抱きかかえたままの瞳の洞がゆっくりと開き、見事な冬の星座を見上げている。

2009-01-10

年賀(抱負)

ほぅれ、すべて膨らんだり縮んだりしているぞ、森羅万象、と呼びかけるかつての音声はそこから空気が追い出されてしまった場・処には向かわず、えぁっと、つまり振っても揺すってもびくともしないで凛と張って、色めく自然へと満ち溢れてゆく抽象、なのに物質でありつづけようとする無機質な意志こそが、あらたまって宇宙交響楽に針を落とそうとする人間らしさに寄せる、今年最初の抱負と言える。およそ1行から3行ちょっとのもののあはれが歳時を言祝ぐ。