2008-12-21

帰る場所

書かれたモノ・コトのかえる場所がいま生きている人間だった、面識のない、ゆかりのない魂だった、だからいまは輪郭のしっかりした魂の話がしたい古い墓をあばくような黄金の、コトバ、律動、化石の卵からとろとろと流れ出る生きた死者との邂逅、生前の事は語らず、ただ微かにふるえているその書かれたモノ・コトは、薄暗い勝手場の隅の古い竃の蒸籠のなかで孵化する魂とともに息衝く。外は夥しい昼の世界。家の中を風が通り抜けてゆく。ふと背後の本棚に気配する。

2008-12-06

午前、或いは午後

酩酊している人類史の明るみのなかで、反古にしては居ないか、おざなりになって居やしないか、路の両袖に立ち並ぶ塑像の問いが導く先にウェザーリポーツ呼び出した気持ち雲がすばやい。向こうは既に森も土もなく、ただ斬りつけた幹から流れ出た漆を掬う仕事の手際よさを浮べている。土曜日曜ならまだ容易い。街では品が求められるのだから。尚の事、皆正面ばかり枯れて甃は痛むので、やって来た方角を辿りその場を後にすることにした。

2008-11-29

繰上師走

ほんの薄皮一枚の濡れ衣をお前はいったいいつまで着せられているつもりなんだと、間歇的に溢れ出る水の盛り上がりを注視しながらも流れに乗るタイミング計りきれない無言の少年そのか細い首すじの表情が語りかけて来る、昨日今日または未来から、そこらじゅうの私の仕業に向けられるそれは明らかに少年の姿勢から某かの事後であることが知覚され、大写しにする、首の付根、ちょうど耳の根元の発達はまだ扁桃と胡麻の香ばしさの違いを自由には分別しない願わくば無垢なまま、珈琲や橄欖なら尚の事、水とは決して混じる事のない油の粒をうっすらと浮かべ、内面に張りついた季節、赤、黄、緑にすっかり色づいた葉の散りゆく外の世界、時間は流れるようにしていてその実、ぺらりとした空に張りついている。ベランダの濡れた衣はいまだ渇かず。

2008-11-05

発端

太宰かと思ったら山頭火だった朝、改めて見くらべてみる熟した柿の実の丸みと越南の少女の青い臀部とを。両者ともフォルムにおいては独断と偏見による選り好みをのみ許容し得る点で確かに共通する。しかし既に周知のことなので多少のばつの悪さに伴われ窓際に沿い立ち、罅ひとつない硝子窓の立ち並ぶ視界に連なる列車の在また不在、東雲の散去ったあとのしずかに波打つ平凡な朝のはじまり。代わりに一匹の母(猫)が驚く。次の瞬間、周りを取り囲むようにして人界の街、地図は構成される。年老いた息子達はまた帰途のない出発へと招聘される。

2008-10-28

雁月

やはりより太い線を描かなければ、成らない、というのも、老いた人にとっての当面の関心の外で、それはあまりに残酷ではないか、他人事ではないか。だが赤の他人の事ではない。であれば、子供心でしょう。なのに子供の心ではないと言う。まさかこの期に及んで子供の頃の事を言うんでもないだろが子供と老人の心の黄色い毛羽に包まれた矢先の点描で、描かれなければならなかったより太い線の事を。であるならば、雁の群れ飛ぶ群青の空の下照らしだされたその人の青白い肌の事はもう、後の世人はだれも言わない。

2008-10-17

秋から冬へ

百舌!ああすっかり今朝のわたしは、新宿の夜の森のなかを歩いていると、出くわしたのだった。ネオンと百人町の抜けるような夜空が一瞬にして開け、高崎、宇都宮、水戸、それら関東地方と、新宿歌舞伎町コマ劇場の回転舞台の軸を中心に反転してゆく、ああ中身と器の、いわば性(さが)をすっかり入れ違えてしまった男と女の百舌よ。小枝の早贄に間もなく降り積もる雪、一方に現れる星の凍える夜の海。いま、生死も男女の別もなく、生理のような朝、寒季が来る。

2008-10-13

朝のスケッチ

もう何時間も同じ場所でじぃっとして、木々の向こう、山の向こう、雲の流れるに任せた空の果てを思いやっているところに、えやっと舌を引き抜かれたような衝撃に思わず身震いする瞬間ががくんがくんと訪れたものだった。ほんのまぼろしか、それとも千切れちぎれの記憶を寄せ集めただけだったのか、そもそも山は角々しく姿を変えながら荒ぶる血を湛えながら昂るものだし、木々の根先の繊毛は風の音川の音に慰撫されて、草花は朝と夕にその身を濡らす。おれは何にも知らずにただそこに居て、ただただ流れてゆく雲と水の間にのぼせた頭と臍の辺りをひたしていただけだ。
不規則なそれら混然とした世界の息吹といえども、一つひとつ目に映る動態、一つひとつ聴こえる声部へと切り出してゆく。それらは、あるひとつの階調に沿って進み、次第に重なり、やがて大きなうねりとなる。そして頂点を超えたとき、おれの内蔵は舌とともに引き抜かれ、代わりに空っぽの風景がばしゃっと転がった。

2008-10-09

宿題(夜)

虫歯ひとつなく皺くしゃの表情をするような教師がひとりも居ない教室では、午後になると決まって塩を吹きはじめる海綿たちの様子が気になって仕方ないといった出で立ちの、ろくに英語の5、6カ国語も覚えもしないで、やれビールを出せ、株じゃなくて保険金で映画を作れと、それこそまさしく夏恒例だと言わんばかりに2、3人で平気で怒鳴り込んで来る女学生もこの頃ばかりはまばらに目につきはじめる。街は冬支度を始めたのだ。
恐らくここ数年食べつづけてきたたべ物のせいのこともあるので、私が肌着のギャザーの痒みにさえも目もくれずに手塩にかけて育てた娘たちだけには、窓口で一万円札や五千円札をぴしゃり、びしゃりと平気でやるような真似だけはさせる訳にいかず、池と砂場のある公園までの歩数を確かめるだけの間に、つまりこのぴしゃりが本当にあの重く軋んでいたはずの襖戸や障子戸がすぅっと横滑りしていく瞬間と等しい時間を持ち得た挙げ句のぴしゃりと同じかどうか訊かれてすぐに答えてやることができない。
叢に墜ちた硝子片に面映る空を見下ろし、覗き込もうとするときの、四季に向かってゆくわたしたち、人やけものや草木たち皆の心の持ちようの問題でもある。

表ではまだ微かに地虫の声が響いている。